映画「終わらない青」を見てから頭の中が混乱しているのでメモを見ながら整理しようと思う。
設定は、うつ病等統合失調症の境目である精神症状を呈す母親。食事は、母と娘が作り、用意が終わると父親が現れる。そして、ナイフとフォークを必ずティッシュで拭く。潔癖症。そう、この家族が「見た目」にも病んでいることが端々に現れるのである。
「家父長制」と言ってしまえばそれまでだが、常にダブルバインド(二重拘束)が主人公の心を縛り付ける。学校の先生は、心配しているように見えて心配していない。福祉の大学を進めるために家庭訪問しても主人公の心に寄り添うことはしない。
母親も娘が浴槽に頭をジャブジャブ付けられて、虐待、傷害致死未遂を行った後に、「用意しておいたわよ」とアイロンを掛けた高校のブラウスを渡す。その時の主人公水木は、水浸しでそれを見ているのに見ぬ振り。
水木は受ける暴力が激しくなる度に自分の部屋に入ると早く自傷をしなければという感じで、ナイフを机の引き出しから持ちだし、ためらいもなく切る。一度机に戻しても、また切る。
それは、自分への禊ぎのように、父を腕に擬人化し殺すように、母親を呪うように…。
性的虐待を受けている主人公の顔は解離していて無表情だが、逆にリアルなのは、それでも少し喘ぎ声が出てしまうところ。きっと主人公はそんな自分も許せない、自分が嫌だと思う行為を受け入れようとしている自分がいる。その葛藤からまた、自傷する。
学校でも常に表情はない。学校の友達からすると主人公の水木は「問題のない優等生」なのだ。だが、夏に長袖のブラウスを着ていることにも気付かない点が僕の取材対象者が「悲しい」といったことにつながる。団扇で扇ぐ暑さなのに、友達が長袖を着ている理由さえ聞かない。そんなうわべの友情。
水上真希は、やがて父の子どもを身ごもる。それは、彼女の希望だった、。だから、話しかける近親相姦で自分のお腹に宿ったいのちでも「狂おしいほどに愛おしい」のだ。絵本を読んで上げたりするシーンは、優しさと産んでいいのかという気持ちの葛藤の極地である。
最後に、水木の小さい頃の幻影か本当の幼女か分からない子に話かけられて、
「雨が好きだから」
と言うが、それはいつも彼女の心の中が雨だから好きにならなけれればならないということの現れでもあると、僕は解釈した。
「絶望」しながら「断念」、「諦念」の狭間で苦しむ痛み。彼女の胸はもう限界というところで、最後の長い結末のような、自殺したくなるような、壮絶な事態に襲われる。
それは、劇場でみなさんが是非彼女の痛み、苦しみを疑似体験して欲しいと思う。
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