昨今の児童虐待頻発の「ような」現実を見て、児童相談所を叩く輩もいるだろう。しかし、現行法と職員の教育レベルからすれば、限界だろう。更に、保護した後の子どもの行き先が、既に保護施設だけでは、限界に来ている。これは、保護施設を増やせば良いだけで済む問題ではない。 虐待の厳罰化で、抑止できる問題でもない。 多面的に、包括的な見直しをしつつ、保護体制を作りつつ、予防を徹底する。そして、暫定的な介入措置方法と、一時保護体制整備で、急場をしのぐしかない。
僕は、最近、虐待問題を自分たちのイデオロギー達成の道具にしている人たちを見て、残念に思う。また、そうなるとは、知らずに関わっていた、自分を反省している。
子どもが、笑顔を取り戻すためにできることだけに、焦点を絞り直し、今後の活動の軌道修正をしたい。
パターナリズムにこだわって、自分の子どもに暴力を振るってしまうか、育児放棄させてしまうような事態が安易な厳罰化には潜んでいる上で、厳罰化に賛成することは、今の僕にはできない。
児童虐待防止のためには、国民全てが、育児をしている人に挨拶をする、たまに声かけをするなどの小さな事をしていけば「減らす」ことはできるはずだ。
僕は自殺問題も、第一フェーズとして「減らす」ことが大事であり、「撲滅」に一気に持っていこうとするのであれば、0 or 100の考えで防止に関わっている人間が疲弊することは訴えてきた。
児童虐待も同じで、「減らす」ために「新しい公共」の概念を持たねばならない。福祉全般を国任せにしないで、自分たちでできることは可能な限り自分たちでする。専門家を安易に増員せよ!と噴き上がるだけでは、問題解決能力のない専門家が出てくるだけで問題の解決は望めない。
教育だろうが、福祉だろうが、自分たちができることは自分たちでやる。そしてそこに「圧力」ではなく、「参加する自由」、「離脱する自由」を認めなければ、暗いニュースが顕在化してきて、子どもたちに明るい未来像を語っても、大人の妄想劇になってしまう。
僕は、子どもたちに希望を語って、それが具現化できる「わくわく感」のある国に日本が戻ることだけを願って、様々な運動に参加したり、実践している。
だから、大人たちのくだらない「自己満足ゲーム」に積極的に参加したくはない。苦しくても後生にバトンを渡せる運動だけに関わって残りの少ない人生を全うしていきたい。
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