大阪東京間を行ったり来たりしていると、地方と都会を実感する。けっこう都会の大阪でそんな感じだから、もっと地方と東京を行き来している方の格差感はいかばかりだろう。
「皆が皆、東京に出てくるのではなく、地方をもっと見直そう」的スローガンはもう何年も前からある。地方の活性化を思えば賛成するし、私自身もまた、出身の大阪で働いてきた。
だが、最近少し地方都市のよくない所が気になりだした。
地方でも生きられる。それは、私のようにぼちぼちずっと仕事を続けていれば、それなりに生きられた。なんせ出身である。実家に頻繁に帰れるし旧知の仲間
もいる。隅々まで知り尽くした土地では、ぼちぼち生きられたらけっこう精神的には豊かで充実した日々を過ごすことができる。
仮に仕事ばかりの人生で遠くに住む親の介護や妻にまかせきりの育児など、人生の味わいの堪能できなさを思うと、ワークライフバランスとは、“ぼち
ぼち働く”なのではないかと思うほど、いろんな側面を生活にもたらしてくれる。だが、その“ぼちぼち”が、たかが“ぼちぼち”のくせに、そんな“ぼちぼ
ち”ごときが、難しい時代になったと感じる。
“ぼちぼち”でも争奪戦になっているのを感じるからだ。回りを見渡すと、既得権だらけで主な市場は牛耳られている。もう何十年も同じ顔ぶれがその席を占め、それ以外のニッチなエリアでの過当競争だけが激しさを増しているのを肌で感じている。
細々とでもいい。“ぼちぼち”働くことが難しくなった。
地方都市の悲しさを思う。地方ならではの密着型の慣習と因習、慣れ合いと付き合いと情け、今までは地方色の味だったそれが、健全な市場をよどま
せ、そこにあぶれた人たちと、毎年増える新人たちとの仕事の奪い合いを生む。それを尻目に、なんとしてでもその既得権を守りたい者同士は繋がりを強固に
し、また、それを可能にするのが“地方的であるということ”なのだ。
それまではクールにスマートに働きたい人は都会へ、地元密着型が好きな人は地方へ、だったが、“ぼちぼち”的労働を救い上げる密着型ではなく、他を排除する密着型に変化するほど、厳しい経済になったということか。
「東京にいてくれないと仕事がしにくいんです」
ある出版社の編集者から言われた。
「なぜ? 執筆家というのは、日本のどこにいてもできる職業でしょ?」
「それがプレッシャーなんです…」
「プレッシャー??」
話を聞くと、地方から東京に来ている間に会談をすると、それが雑談でも「仕事に繋げなきゃ」というプレッシャーになる。その理由は「だって滅多に会えないから」だという。
それが頻繁にいつでも会える距離にいれば、お茶の雑談は雑談として成立し、そういう解放された自由な時間と空間の中から、真にやりたい仕事のヒントが芽生える、という。
私は単にフラフラと東京大阪間を行き来している実感だが、会うほうは「わざわざ大阪から来た」がいつも念頭から消えないのだそうだ。
私は反発してみた。
「でも、山崎豊子さんも、高村薫さんも、小松左京さんも、みなさん大阪で仕事しているじゃない」
編集者は言いにくそうに言った。
みなさん、…巨匠です」
夜、友人が30階のラウンジから東京の夜景を見下ろしながら言った。
「これが大阪の夜景なら、それを見てホッとするでしょ? でも、この東京の夜景を見たら人はどう思うと思う?」
あえて大阪弁で返事をした。
「そやな。ここでどーやって食べよー、と、人は思うかなぁ」
「そこよ。安心して生きちゃだめ。さあ闘うか、と思って生きなきゃだめ」
世の中、スーパーポジティブな勝間和代で生きるか、弱者に優しい香山リカで生きるか分かれるところだろうが、私のように“ぼちぼち”と生きたい中庸な人間は都会と地方の狭間で揺れ続ける。
格差社会と言われて長いが、本当に怖い格差は都会vs地方ではない。地方の中の強者vs弱者だ。
仕事の的は社内にあり。
自分の的は意思にあり。
中国の的は人民にあり。
地方の敵も地方にいる。それはぬくぬくした連中のことだ。
地方が弱者の受け皿の機能を果たせなければ、「東京でうまくいかなければこっちへ戻っておいで」の優しさも、成立しない。
そうなれば、もはやカツマーになりますか? どうしますか? ではなく、カツマーしか生き残れない時代の始まりでもある。
いろんな土地でいろんな働き方があるという共通認識の中での会食は、あくまで「会食」だった。
それが成立しなければ、会食は「仕事しにわざわざ出てきた東京での会食」という意味を帯び、たかが食事がプレッシャーを生みもしよう。
巨匠だから大阪で働けるのではない。
いろんな土地でいろんな働き方がある時代の下だったから、その土地で巨匠にまで育つことができたのだ。
今の時代は、巨匠でも弱者でもない多数派の人間が、ぼちぼち生きることの困難を思う。
解決は、地方が、地方の力で市場に流動性を入れ、新しい風を入れるしかない。どこにいてもそれなりに食べられる中から、個性が誕生し、育つ。
スーパーポジティブは悪くはない生き方だと思うが、私のお勧めはぼちぼち生きることだ。
勝つ格好よさはないが、負ける悲壮感もない、お得な生き方だと思う。
“損得勘定”もまた大阪製であることを思えば、「儲かってまっか?」「ぼちぼちでんな」の“ぼちぼち”こそが、今目指す生き方に思えてならないのだ。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20100210/212729/
結局、「カツマー」、「カヤマー」議論は、勝ち組負け組の二項立になっている。
この手の議論で、一番辛い層というのは、10年前から、
「どちらにも所属できない層」だと僕は言い続けてきた。
まったりダウナーにもなれず、ひきこもりの一人の世界にもなれない。
そんなどっちつかずの人間がほとんどではないか?
「カツマー」にも「カヤマー」にも【部分的に】憧れる。
そして、まさ記事にある通り「ぼちぼち」生きてく人がほとんどではないか?
実は、遙洋子が一番共感できる本を書いてしまうかもしれない。
オードリーの若林のような普通でありながら、何となく生きている人。
そんな人がほとんどな気がする。
そこそこで良いんです。
オンリー・ワンなんてそんなにいません。
ロンリー・ワンでも生き抜く抜けてる感覚。
そっちの方が大事ではないだろうか?