■連日の児童虐待の報道に、本気で世間が麻痺してきている気がする。
■ここで、仮説を立てたい。そもそも、子どもを育てる能力が全ての人間に備わっていないという視座に立って考えてみた。そうすると、社会のパラダイムシフトから見えてくるものがある。
■そもそも、50年前までなら、子どもを産んでも核家族化、無縁社会などコミュニティ崩壊は起こっていなかった。家族なら、盆、正月の帰省も当たり前であった。それは、今でも変わらない。核家族は現前としてあった。しかし、少子化でなかったために、親が居なくとも兄弟同士で面倒を見る文化があった。
■この20年くらいの少子化傾向により、親と子の一対一のクローズドな関係が増えたように思う。女性の社会進出に伴い、育児休暇を取って、出産をする女性は多くなった。
■「イクメン」だなんだと言ってもまだ小数。密着した母子関係は続く。そして、そもそもその子育てをする母親が兄弟がいなかったり、近所の友達づきあいもなく、異世代交流が無くなってきたように思う。
■学童保育に行っていれば良いが、塾などに通う子どもが多くなったために、結局、就学前~小学校に異世代交流が少ない。
■要するに、「赤ちゃんや子どもと生に接したことがない」まま親になる人が多くなってきている。さらに誤解を覚悟で言えば、「子育てのソフトがインストールされていない」ままに親になってしまうのではないか。
■だから、少子化でも子育て本は売れるし、参考書コーナーも安定売り上げを維持する。相談でよく寄せられる「子育てのマニュアルが欲しい…」というのは冗談に聞こえない。
■英語の勉強で、日本語訳がわからない生徒も出てきた。しかし、それでも早稲田、慶応、上智に合格していく。日本語が余りわからないのに、私学の最高レベルの大学に受かってしまう。それは教え子を見ていて不可思議な現象だった。
■それに当てはめると、子育てのマニュアル本に書いてあることが腑に落ちない親が増えている気がする。そうならば、予防の観点から、「ゼロからはじめる子育て本」で、前提条件を下げて説明する必要があるのではないかと思う。
■虐待と躾の区別。これが日本では曖昧にされてきた。僕もこの区別は答えに窮する。相談を受けたときに、「グーで殴って、出血、アザが残ったらしたらそれは虐待です」とは答えるものの、グーで殴ってアザも残らず、出血しなければ、虐待ではないのか?という疑問が残る。
■だからこそ、児童虐待の厳罰化、通報強化を喧伝するより、予防プログラムを組む必要があると思う。もしくは、更正プログラムも急務だ。
■それだけの前提条件を課してなお、児童虐待をしてしまう親からは、親権を剥奪しても良いだろう。しかし、そもそも子育ての知識が無く、社会のどこに頼りながら子育てをできるのか知らない親を糾弾するのでは、現状は何も変わらない。
■「手は尽くした」と言える段階まで、僕は社会が親にコミットするべきだと思う。その中で親の子育て支援プログラムは、子どもを産む前から必要だと思う。
■そのために、僕が代表を務めるDrastic Actionは、10月より関東近郊を皮切りに「児童虐待予防・防止チラシ」を1000枚配布する。これは、継続的に行う予定である。既にデザイン画作成や行政では提供できない育児情報を掲載していく。
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